考えすぎるからとことん考える日々

考えすぎることがコンプレックスな人間が開き直った結果。世の中の色んなことについて考えすぎようと思います。

怒り。

私は怒りという感情があまりない。

昔からではない。最近の話である。


身の回りに起こる出来事でも、ニュースで見た事件でも、世界情勢でも、だ。


例えば芸能人の不祥事に関するニュースがあったとする。


好感度が高い低い関係なく、ワイドショーでは連日報じられては批判され、ネットに燃え広がった炎は収まるところを知らず、誰にも把握できないほどに拡大していく。


ところで私は何もしない。SNSはもともとやっていないから書き込む事はしない。人との世間話でさえ、だんまりを決め込む。


これは、どんな出来事でも当事者同士にしか分からない、微妙な加減があると思っているからだ。


隣人の事情さえ全ては分からないと言うのに、顔や名前しか知らない人の事情を全て把握しうることなど不可能である。


それに、ネットに書き込んで声を上げ、電話をかけまくってクレームすると、当事者の意識がガラリと変わって事態は一変、解決に向かうのか?私はそうは思えない。


恋人がいい例かもしれない。(ネットや電話でクレームの良い例ではないが)


どんなに暴力を振るわれても、「あの人には本当は優しいところがある」とどこまでも信じ続けて、別れない恋人。ハタから見れば今すぐにでも別れた方が身の為だというのに。当事者になると、そう簡単には割り切れないし、恋人を切り捨てられないのである。


だが、もしかしたらその暴力にも理由があるのかもしれない。


暴力を受ける方が極度のマゾヒストで、自身を痛めつけられるのが至福のひとときなのかもしれない。実際そんな話を読んだ事がある。(江戸川乱歩による明智小五郎シリーズの初期作品だった。名前は忘れたが。)


あるいは暴力を振るう方は本当はそんなことはしたくないが、自身を付け狙うストーカーから脅され、恋人を守るためにパフォーマンスでやっているのかもしれない。


あるいは暴力を受けるほうがミュンヒハウゼン症候群(周囲の気をひく為にわざと怪我をすることをやめられない精神状態)で、恋人に暴力を振るわせているのかもしれない。


今挙げた3つの例は、いずれもツッコミどころ満載であろう。(もちろん、暴力を振るわれている方が助けを求めているなら助けるべきだが。)


なぜならあなたが「赤の他人」であるからだ。現在進行形で、「ハタから見れば」を実行しているのである。


しかし当事者は、ハタから見ればすぐ気づくことに気づかないのだ。


あなたも、「早く逃げ出せばいいのに」と言われるような状況に陥ったことはないだろうか。


当事者である中でも客観的な視点を持ち、冷静に物事を考えることができれば素晴らしい。


ただ、ハタから見れば「??」となる事柄でも、実際は事情があるのかもしれない。当事者にならなければ分からない、何かがあるかもしれないのだ。


私は徹底して客観的に見ることを心がけている。何か良くないことが起こっても、すぐ感情的にならないよう心がけている。


とは言っても、私はただの人類である。ネガティブな状況に直面した時ほど、何らかの感情が起こる。そこで私には、よくないことが起こった時の合言葉がある。


「ほほう。」


これである。


…着地点を見失っている最中であるが、とにかく「ほほう。」と心の中で呟くと、なんだか落ち着く。


…というのは全て綺麗事である。


小さな子が虐待で殺されたニュースを聞けば怒りを通り越して無力感で悲しくなるし、女性が合意のない性行為を強いられた話を聞けば心が痛くて痛くて苦しくなる。


結局、私は自分勝手な人間なのだ。


人に起こった悲しい出来事たちを、ハタから見て勝手に感情移入し、これは理不尽、これは勝手に何とかできる、などなど順位を付けている。付け続けている。


自分を卑下し続けるのも悲しくなるのでこの辺りでやめておくが、とにかく情報の多い今の世の中で、自分の感情、特に怒りをコントロールすることは非常に難しい。


しかし、この感情は何かに昇華させなければ私の心がいい加減もたない。


考えすぎだな…だけども、ここで発散できて非常にスッキリした。


様々な人を傷つけるのが怖くて怖くて、何回も書き直したが、やっと完成した。


…なんとも嫌われるのが怖い、臆病な人間である。