考えすぎるからとことん考える日々

考えすぎることがコンプレックスな人間が開き直った結果。世の中の色んなことについて考えすぎようと思います。

死にたい?分かる分かる。だよねー。

「死にたい」ということを口に出す人が多くなったと思う。


SNSが普及している現代において、誰でも自分の思っていることを世界に発信できるようになったからということも大きいのだと思うが。


ただ、今回のテーマは「死にたいなんて簡単に言っちゃダメ、命は尊いものなんだよ!」という綺麗事では決してない。


むしろ、「死にたいなんて思うのは当然だよね」という重たいような、そんなテーマである。


先程書いたように、「死にたい」という言動を否定する人には、30代より上、つまりSNSが普及する前に社会人になり、生き抜いて来られた方々が多いように思う。


私は今20歳であり、人生経験もまだまだ浅い。だから、先述の方々がどのような時代に青春時代を過ごし、社会に出た時どのように言われてきた世代なのかも、ちっとも知らない。


下から上を見た時に感じることしか考えられないし、書けない。それでも、書こうと思う。


バブルが弾けた後から、失われた○○年の年数ばかりが増えるだけで少しも景気が上向かない時に生まれた。小さな時から、日本全体が元気な時は無かった。


学校で社会について勉強するにつれて、理不尽なことばかりなのだと知った。テレビやネット、新聞で知るのは、嘘をつく大人、今だけが良ければ良い大人、困難から逃げる大人ばかりで、真面目に暮らしている人ばかりが損をする世界なのだと知った。


子供でも大人でも、男でも女でも関係ない。みんないつでも危険と背中合わせで暮らしている。何かをきっかけに、周囲の人から、社会から、いじめられるかもしれない。


不安を抱えながら生きていくのは疲れる。別に、心から信頼できる誰かがいるわけでもないし、心から楽しく思う何かがあるわけでもない。心の拠り所になる何かも無い。または、そういう存在が前はあったけど、裏切られたこともある。


児童虐待、いじめ、性差別、性暴力、DV、ストーカー、詐欺、貧困、過労死、環境破壊、などなどなどなど。ここには書ききれないくらいの困難が、日本にはある。もっともっと、日本では考えられないような困難が世界にはある。どこに行ったって困難はある。


もちろん、私がネガティブな事柄ばかり拾っているという事もあろう。今の日本にだって、夢に向かって充実した日々を過ごす人もいるだろう。


でも、多くはない。そう思う。


みんなスマホに操られ、綱渡りのような人間関係を一旦選んでしまったがためにそこを歩き続け、その綱が切れていると分かっていてもそこにしがみつくしかない。


いくら上っ面だけ楽しそうに見えたって、心の中ではいつも泣いているかもしれない。あの子も、その子も、この子も。


私は少し前まで、「誰か私を殺してくれないかなあ」と本気で思っていた。


歩道を歩けば車が私めがけて突っ込んでくることを期待し、家にいれば誰か忍び込んで私をナイフで刺してくれないかなあと思い、寝る前に明日死んでいますようにと願い、朝起きて死んでいなかったと失望した。


そもそも、自殺だって殺人だ。世界の紛争地域でも、毎年3万人も亡くなりはしないらしい。日本が、世界で1番残酷な戦場だ。24時間365日、誰かが誰かを殺している。みんなでみんなを殺し合っているのだ。あなたが午前中に言ったあの一言で、相手は夜も眠れないくらい悲しくて、苦しくて、苦しんでいるかもしれない。1人の自殺者の周りには、何人もの引き金を引いた人間がいる。


しかし、ある時ハタと気がついた。


人間は皆死ぬ。


身の回りの憎きあいつも、あの殺人鬼も、あの政治家も、あの大富豪も、あの天才も、あの人格者も、


…身の回りの友人も、恋人も、家族も。死ぬ。必ず。


命あるものに、必ず死は訪れる。


それが早いか遅いか、それだけだと思う。それしかないのだ。それが、数少ない「必ず」の内一つなのだ。


この気づきは私にとって大きいものだった。


どうせ死ぬなら後悔せず死にたい。やりたいことをやって死にたい。もちろん、だからといって犯罪に手を染めるべきではないし、何もかもやっていいわけじゃない。


でも、どうせ死ぬんだ、仲間外れにされるがなんだ。仲間外れにしている奴らもどうせ死ぬ。いじめがなんだ、いじめているやつもどうせ死ぬ。いつもいつも腹立つあいつもどうせ死ぬ。顔と名前しか知らないような、テレビに映るたび不快で仕方ないあいつもどうせ死ぬ。


あなたは今、いじめられているかもしれない。人から、だけではない。社会から、かもしれない。なら聞いてほしい。


きっと、自分が今孤独だと感じていると思う。自分の居場所などないと感じているだろう。場合によっては世間に顔向けできないような事情があるのかもしれない。


でも、地球は広い。どこかに居場所はある。体の居場所を見つけるのが難しいなら、心の居場所だけでも。


こんなにもさまざまな「モノ」がある現代において、あなたが心の拠り所に思うものは何一つ無いだろうか?些細なことだっていいんだ。きっとある。


物事にポジティブな感情を持つ心が無くなってしまったのなら、いろんなものを見てみるといいのではないだろうか?自分の心は自分のものだ、自分のペースでコントロールしていけばよい。


そして見つかったなら、それかもう見つかっているのなら、それを自分のペースで楽しめばよい。見つからなくたっていい。娯楽は強制ではないのだから。人に言わなくていい、言ってもいい。仲間を作るのもいいかもしれない。とにかく、あなたがこころ休まる時間があればいい。


何かを楽しむ心がある、それだけであなたは素晴らしい。何も間違っていない。


そもそも、どこをどう生きていったって、危険や間違いはたくさん転がっているものだ。


それを触れたくないと思うより、触れてしまってそれにどう対処するかを考えて生きていくのが「人生」、つまり「人を生きる」ことなのだと思う。


目に見えない未来は怖い。だから、目に見えない未来を怖がるよりとりあえず突き進み、困難に当たってからこれをどう料理してやろうかと考えるくらいが心が楽だ。私は。そう思えるようになった。


何かから離れるのが怖いなら、離れなくていい。離れなければと思っているなら、自分のペースで、ゆっくりやればいい。進もうという気持ちも、進むのが怖いという気持ちも、どちらも正しく、素晴らしい。


随分長くなったが、つまり死にたい気持ちもよく分かる。けれどあなたはどうせいつか必ず死ぬ。だから自分のペースでゆっくり進んでから、後悔しないように死ぬために生きても良いのではないかということだ。


…ところで文章まとまってなくない?言いたいこと詰めすぎたね?うん、反省反省。でもとりあえず公開してしまう。(内心怖い豆腐メンタル)