考えすぎるからとことん考える日々

考えすぎることがコンプレックスな人間が開き直った結果。世の中の色んなことについて考えすぎようと思います。

この世で1番最強だと思う力。

以前、どんな他人事にも当人同士しか分からないものがあると記事に書いた。


(ここで記事の引用ができないのがみどりちゃこクオリティ)(「怒り。」という記事です)


誰かが誰かのせいで悲しい思いをしたとして、その友達に「わざとじゃないんだよ、あいつ悪いやつじゃないからさ、許してやって?」と言われたとする。


私なら(知らねえよこっちはアイツのせいで傷ついたんだよそれを労われボケカスゴルァ)などと内心毒づきながら、「へー…」と苦笑いで返すだろう。


しかし、とっても良い人なら素直に(そっか、わざとじゃないなら仕方ない)と感じるだろう。


しかしこれは解決なのか?この「良い人」は「わざとじゃ云々たらたら」の言葉で二重に苦しめられているのではないのか?


その一方で、悲しませた張本人が壮絶な過去を持っており、友達はそれを知る数少ない人間で、いつもそうやってしか場を収められずに2人とも苦しんでいたとしたら?


私の苦笑いの対応が友達を少し傷つけているかもしれない。「良い人」の対応もまた、(ああ、この子を無理させているんだろうな申し訳ないな)と友達を傷つけているのかもしれない。


こんな時、当人達の苦しみを和らげるのは、「同じような痛みを感じた経験」なのではないだろうか。


私か「良い人」が、「わたしも○○くんと同じような経験があるの、気持ちよくわかるから気にしないで」と微笑んだなら、友達も当人もどこかホッとするような気がする。


さて、タイトルの通り、この世で1番最強だと思う力はこの、「苦しんだ経験」ではないだろうか。多ければ多いほどよい。


もちろん、これは「最強」なだけであり、使い方次第では再び人を苦しめる可能性がある。


貧しさを「自己責任」と断罪する人間は、貧しさを知らないからそんなことが言える。日本にだって、どうにも立ち行かない理由で貧しさから抜け出せない人々もいるのだ。


殺人を犯した人を、ただただ「人殺し」と言えるだろうか。目の前の人間を殺さなければ自分が殺された状況にあったのかもしれない。どんなに救いようのないサイコパスに見える人間でも、それ相応の壮絶な幼少期を過ごしたのかもしれない。もちろん、殺人が容認されて良いわけがないし、被害者の方や遺族の方々の苦しみは一生消えないことは事実なのだが。


何かに苦しんだ経験があるなら、連日報道される様々なニュースの見方は随分変わる。


人に対する、「本当の優しさ」を得ることができるはずなのである。方向が間違わなければ。


ただ、経験しないことは何も分からないから、予想でしか考えられない。


誰もが羨む美貌の持ち主にだって、人並み外れた苦労があるはずだ。


むしろ、人生における成功者と思われている人間にこそ、誰にも言えない悩みが多いはずだ。


なぜなら、誰かに相談しようと思っても「嫌味」にしか取られないからだ。(本当に嫌味を言っている人間は除く)


ハタから見れば華々しい成功者こそ、私は見るたびに心が苦しくなる。例え考えすぎだと言われても、その人が感じたであろう苦しみを想像することがやめられない。


自分が経験していないことでもまるで経験したかのように苦しみを感じられたらそれこそ最強の能力なのだが、これはムリなのである。


…いやまあそりゃ出来れば私も欲しいですけどね!?!?!?


だっていきなり家族を殺された痛みはどんだけ想像したってその人しか分かんないし!?金持ちの悩みは金持ちしか分かんないし!?人権のありがたみは人権を侵害された人にしかわかんないかんね!?(キレたよこの人、そして秩序が感じられない例え三連発)


私達は人間でありながらも人間であるからこそアタリマエになってしまったことに感謝もせずただダラダラ薄っぺれえ板をつつき回して生きてんだよ特にこの平和な日本においてはなあ!!(そうじゃない人ももちろんいますよ?)


いいか!!この世には!自分が経験したことのない苦しみを抱えた人が大多数なんだ!


だから!私は!想像できないながらも!未知の苦しみを相談されたら!寄り添いたいと思う!


なんの!宣言だ!


以上!解散!