あの日から、人それぞれ。
東日本大震災から8年が経った。
まずは改めて、亡くなられた方々に心よりご冥福をお祈りする。
あの日、多くの人がこの世からいきなりあの世に奪われた。
誰も、何もできなかった。
なぜなら自然が起こした悲劇だから。
悲劇だと思っているのは人間だけである。自然にとってみれば、ただの自然現象。原発が爆発しようが、家が流されようが、人間が勝手にやったこと。自然の脅威を前にして、勝てる人間など誰一人として居ないのである。
だからこそ、悲しい。だからこそ、虚しくて堪らない。誰もが無念の内に亡くなった。理不尽でしかない、そう思わずにはいられなかった。
誰も、責められない。誰かに言おうと思ったって、その誰かもまた、家族や、友人、恋人、家などを失っているのかもしれないから。
「みんな、大変なんだから。」「助かったのだから、あの人達の分まで生きよう。」そんな言葉でなんとか抑え込もうとする。苦しい。人それぞれだろうけど。それでも、苦しい。「どうして、自分が」そんな思いも出てくる。きっと。
私はその苦しみを体験した人間ではないものだから、こうして想像するしかできない。そして私なんぞの想像を遥かに超える苦しみを、あの日、多くの方々が味わった。今現在、乗り越えているも、乗り越えられぬも、人それぞれのペースがあるだろう。私に何を言う資格もない。
しかし、3.11から人間は多くの教訓を得た。それに、助け合いや譲り合いの精神が人にはあるのだと再確認できる出来事もたくさん報道された。
苦難の時こそ人の本性が現れる、とは数々の歴史上の人物も明言していることである。その言葉通り、様々な人々の真髄が現れた。
私は何をやっただろう。そう思い返すと、何もやっていないことに気がついた。何もせず、次の日から日常生活を送った。
3.11だけではない。去年多発した豪雨の時も、北海道で起こった地震の時も。何もしなかった。
それで良いのか?
良いところはある。SNSでデマを拡散する1人にならず、不要な混乱を起こさなかったこと。現地の方々の気持ちを慮ることなくボランティアに行き、迷惑をかけなかったこと。
悪いところもある。誰の手助けにもならなかったこと。募金することもなく、誰かの手助けにならなかったこと。要は、なにも行動しなかったこと。
以前、ボランティア活動をする芸能人の方が、「偽善と言われてもやらないよりやる方が助けられる誰かがいる。困っている人が大勢いるから、ボランティアをやる。」
その通りだと思った。偽善云々言っている間にも、誰かが困っていて、誰かが助けを求めている。中傷を受け取るより、その方々を助けるべきなのである。
色々考えつきすぎた。随分一貫性の無い記事になったが、とにかく偽善だと言われても、便乗だと言われても、どこかで困っている誰かのために、そっと支えになる行動をしていけるよう、これから生きていく。そう決意した日であった。